通勤のこと

4月から電車通勤になって、意外と座れるので(路線を言うと驚かれるけどほんと)朝は1時間くらい本を読める様になりました。帰りは始発だから当たり前にすわれるのだけど、たまったメッセージを返したりしてあんまり読めていません。というか、帰りは読みきらないと家まであるきながら読んでお風呂の中でもよんでしまったりするので少しやめているのもあります。

4月がしまったから読んだ本リスト

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最近のはやりは中国茶

お客様からもらったお酒の頒布のときに、ほとんど飲まないのでかわりにお茶をもらって以降めちゃくちゃハマって飲んでいます。カフェイン量をあんまり気にしていないのはよくないかもなあ。作業中とか勤務中にお湯を継ぎ足し継ぎ足し飲めるのが良い。岩茶の大紅袍をもらい、家に未開封のまま転がっていた黄金桂をその次に飲んでいます。年を越すまではものすごいほうじ茶ばかり飲んでいました。全慶茶会のときのほうじ茶が一番おいしかったなあ。

さて、最近は寒さと木の芽時のせいかすっかり落ち込んでいました。なんでか読書でスイッチが入ってもくもくと本を読み、また泳ぎ始める事ができたけれど、どうにかしてご機嫌をなみなみに保ちたいものです。まあ全部、原因はわかっているし解決できないからなんだけれども。働くのって難しいな。

今日はひな祭りで、親しい友人の誕生日でもあります。そういう風に言える友人が一人だけでもできたので私としてはもう、当職は上々だったと言えますね。ひな祭りといえば、私は母の作る雛寿司が好きで、今日もなんとなく寂しい気持ちになりました。大物の料理をしても、もう共有する同期女性が一人しかいなくなってしまった。当地でのよき休日の友人*1は無事3/1で本社へご栄転となり、異動のない友人だけはまだいてくれるけれどやはりどこか寂しいものです。

*1:彼女とは、なんでかよくでかけました

普通話とわたし

一種の言語おたくである、ということについては疑いようもないけれど、わたしのアジア系言語に対する理解は大変に解像度が低い。
こまったから覚えた、面白くて覚えた、対訳したくて再開した、ここらへんでしかなく、他の言語のような語源を探る旅をしていないのだ。
それでも広東語については英語以外に初めて興味を深く持って着手した言語であって、高校に上がって初めて日本橋丸善でテキストを買って自主的に進め始めたものの一つであるが、一方普通話は、というところであった。
わたしは高校2年生になるまでメインランド・チャイナに上陸したことがなく、ほどほどに漢文の成績はよかったし興味は深かったのだけれども、全く読めなかった。字そのものが。のちに訪れリアルサクセスを踏む上海ではなく、広州であったからか、本当に英語も何も通じず、わたしの知っている繁体字もだめだった。英語はリングワフワンカなんかじゃない、と思ったわたしは、数カ月後の新年度履修届で当初の予定通りのフランス語に加え、普通話のクラスを足し増すのだった。それからはいくらか、旅行には困らない程度の普通話が見についたけれども、あとは活用されたためしがない。海外に出た時に英語がなくとも、フランス語か中国語がある場合、特に後者は結構あって助かるということはあるけれど。社会人になってからは、中国語のドキュメントの抄訳のよくわからない機械翻訳の日本語を読むくらいなら原本を目に通し、その内容の精査をする、という点で身を助けたことは数度あった。それから台湾版機流警察を手にし、ある程度読み進められている事か。対訳趣味はわたしの根底にある趣味の一つで、これはできたら手放したくはない。
タイにもよく遊びに行く割に、そして初等教育のときに交流でごあいさつやらを複数年やった割に、全くタイ語については読み書き会話すべてができない、する気もまだ起きていない。それは多分英語が十分に通じて、一度あった旅行での道わかんないトラブルでも英語会話能力に助けられたから余計に食指が動いていないというのはあるだろう。ベトナム語も同様だ。とはいえ、わたしはあの土地にはタンソンニャットがまだ古かったときに一度しか訪れたことがない。でも今度休暇で行ってみるのもわるくないかとも思っている。シェラトンであってもシーツは好ましい雰囲気ではなかったし、交通はひどかったけれど、記憶は甘やかだ。今度は恋人とのんびり南国でワンピースで過ごして、水遊びをするか昼間から少しお酒を飲むかして、きちんとリフレッシュ休暇を送りたい。
マレー語もいくらか一人の長期休暇をKLのホテルで過ごすようになったのに一向に覚えない。でもこれはわたしのフランス語の先生は皆口を揃えてわたしたちに言っていた言葉で安堵して手を付けていない。『仏語の動詞活用ができるのであれば、マレー語はいつ手を付けても大丈夫』。平林さん元気かな。わたしの最初のフランス語の先生でした。もうひとりの小町さんには習っていないのに、まるで持っている子のようによく廊下で話しかけられたっけ。
いずれにしても、駐在するとなれば多少は覚えるのだろうが、今のところその目星は立たない。でも駐在するとしてもシンガポール事務所かアメリカ、中東がいいなあ。欧州地域はいけない気がしている。悲しいけど

空港と飛行機がすき

この間、空港デートでターミナル間移動のバスに乗っていた時、ふと昔はバスでしか国際線ビルに行けなかったなということを思い出した。羽田国際線が暫定ビルでなくなってから、見かけなくなった人がいる。
おジャ魔女さんである。

毎年の年末年始、実家の家族は旅行に出ていて、親戚と過ごした記憶は一度もない。*1
その理由は興味もなければ深堀りする気もないが、少なくとも私の生まれる前から両親の生活スタイルとしてはそうであったという風に聞いている。まあいい、片方は雪国だし、もう片方も確実に年末年始家を空けているだろう。一番上同士でありながら、実は思ったよりも親戚の数は少なく*2、私は年末年始に帰省するという文化を働き始めて遠隔地に閉じ込められて初めて知った。学生のうちは実家から通っていたし、当地勤務は精神衛生上、めちゃくちゃに悪い。たぶん北は仙台、南は広島くらいまでだったら帰らなかっただろうな、とは思う。確実に千葉勤務をつづけていたらばわざわざ年末年始には帰らなかっただろう。*3
旅行に出ていて、東京発のとき使うのは成田か羽田だった。年末年始の行先としてはアジアか北米が圧倒的に多く、温かい地域もあれば隣国ということもあった。これは父が一応はフォトグラファーとして*4ノスタルジックな建築の写真を撮りに出かける、これも副次的要因として存在する。主たる理由は旅行が趣味の両親が海外発券をしていたことだろう。群山で赤貝の刺身を食べて翌日から吐き通したのは未だに忘れない*5し、あの灰色の空と開けた土地から見える大きなガントリークレーンは未だに大きな印象を残している。近年、あの土地の造船所は閉めてしまったと聞いたので、もう二度と仕事でも見に行くことはないだろうが。何の因果か、忘れていたのにそれに向かうような担当の仕事についていたりするし、こうして過去が現在にふとした瞬間に影を落とすことには不本意ながら若干の愉しみがある。
金浦路線は圧倒的に羽田発だった。仁川のときは成田、これらの組み合わせは割とないまぜであったけれども、年末か年始、特に年始は羽田利用が多かった記憶がある。そんな中でバゲージクレームの際に一番見かけるのは父の友人*6、そして税関以降で一番見かけるのがおジャ魔女さんである。後の照会によれば、いずれの空港でも出会っていたっぽい。

彼は父と同じくらいの年恰好の男性で、薄着で*7、毎年ピンクの擦り切れたおジャ魔女どれみのリュックを背負って国内線との連絡バスに揺られていた。時間帯的にも同じ飛行機に乗っていただろうが、機内で見かけたことは2度ある。最前列と私の後ろに座っていたし、優先搭乗をしていたのでおそらくスターアライアンス・ゴールドかなんかだったのだろう。*8でもラウンジで見かけたことがないな。いずれの回もCAさんにクレームに近いお話を延々としていた記憶がある。席が近いと聞こえるよね。ともかく、彼の風貌は印象的で、数年に渡って見かけていたにもかかわらず毎年同じような恰好、同じかばんだったのだ。記憶に残っている私が彼を見かけた最後の年はちょうど同シリーズの終焉の年*9だったようだから、以降の年は別の女児アニメのアイテムを纏っていて、気づかなかったのかもしれない。でもナージャだろうがプリキュアだろうが、目立つと思うけど。*10いつだったかバスで目の前を見上げて彼が立っていた時にふと年を越したな、と思ったので彼の記憶は新年の空気と結びついている。おジャ魔女の方、と母がたまに彼を示す語を使っていたけれど、知らない単なる遭遇者であるのにいまだに両親の記憶にもきちんと深く刻まれていたのを本日確認している。私よりも記憶が薄まるのが早い両親、いずれも彼が座っていた座席位置まで覚えていた。おジャ魔女の方ってなんだ。北の方か。魔法使いじゃないか。
あれから高校二年になるまでは家族旅行の習慣があって、高校二年の年末年始に広州香港へ行った時の記憶も面白く、また言語おたくの大きなきっかけの一つとして刻まれる出来事ではありますが、一方でおジャ魔女おじさんは見なくなったのである。中学の時は大概東海岸と往復した記憶があるけれど、もちろんその時は見ていない。彼もまた、まだ旅行の中にあるのだろうか。

*1:おかげさまで、お年玉の習慣も基本的にない。

*2:単純に私が知らないだけかもしれないが

*3:代わりに月内で度々帰っていたというのは実績として存在する

*4:偶然にも高校の同期がインスタグラムに挙げていた写真集は父の参画したそれだった

*5:あと、最近日本のスーパーでもよくでてくる透明の歯ごたえのあるプチプチがあって結構好ましい食感だった。もしかして使いまわされたかもしれないそれが原因か?!

*6:とはいえ、私と母を認識していたかは不明だ。この人は他の連休のとき、もちろん成田であってもよく遭遇した。父の日程に合わせこんでいたのかもしれないが。彼は未だに父と親交があるときいている

*7:後述するが、冬の韓国はクソ寒いのであの薄着は信じられないと着込んだ我々は思っていた

*8:父はさらに詳細も覚えていたが、伏せる

*9:2003年だって、もう16年も昔になるのか

*10:余談だけどナージャの薄暗さは20歳の時に留学前に見返して初めて良さがわかりました。ローズマリーちゃんを抱きしめたいよ…。私の年代は女児だったころにセーラームーン、小学生の時代にどれみなのでセーラームーン世代と言ってはばかりません。うさぎちゃんと亜美ちゃんが好きでした。幼馴染のおねえちゃんと、高校来の親友は美奈子ちゃんが好きなのめっちゃそれっぽい。

読了めも:豊島ミホ『檸檬のころ』

豊島ミホ檸檬のころ』読了。初回だけど参っている時の感想なので、もうすこし元気になってから読み返したら別の感想があるように思えるのでメモしておく。
ふつうにネタバレがおおいので下げる。

 

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