背景

ひとの話を聞くときに背景があるのが好きです。残念ながらわたしにはそれが薄くてぼんやりしていて、だからわたしは日本画なり抽象画を描くのかもしれない。首都圏のカントリーサイド、まだまだ一時間くらいで都心につけるくらいのカントリーサイドの硬直した管理社会に飛び込んでみたらば全く水が合わなくて、最初から受容もされずにさっさと飛び出してしまったからそういうのが薄いのかもしれない。まあ、実家も移転してしまったしそんなのもうどうでもいいし、あの社会とは多分二度と接触しないけど。いやするかもしれない。わたしの前任者は異動先のギョームで本社からその土地へ、月に一度通っている。*1

それでもそんなわたしに、大学時代の友人*2からの依頼で公立中学校の子供向けに外のおねえさん視点での図書室だよりに寄稿をしました。子供が日々接触しないタイプの大人の話を載せるというコンセプト、とても指導者っぽくていいなと思いました。彼女の中でよく本を読む大人の元文学少女*3として認識されていて、お話を受けたことはとても光栄です。

テーマは本にまつわること、題材もスタイルも自由、とのことで、わたしがかつてあの時に読んでいた本にまつわる話を書けばいいのかと思ったけれどわたしもわたしで随分とマセていたし、あの時は尖りすぎていたからもちろん横の人間を多分全員馬鹿にしていた。そんなのをそのまま肯定すべく書くのは大人としては間違っていると思ってしまい、手は止まる。異端は存在を許されなかったので、許されるべく異端は管理者となるべく風紀委員の上に立ったし、成績表と模試結果でも一番上に名前を書いていたのでそれは如実だったことでしょう。あの子は違うからと言われる悲しみはもうあの時にさっさと捨てた。

今の趣味である対訳は実はこの時に既に手をつけていて、イギリスのファンタジーの邦訳が不思議すぎて最初手を出したのがきっかけだったように思う。ロアルド・ダールももちろんよく読んだし、その中でもピアスは大好きだった。今でも本棚に原著がある。今回はそっちを本稿としております。没になったのは梶井基次郎の「檸檬」で、わたしは梶井から日本文学少女になったのであるよ。きちんというと読み始めたのはまだティーンになったばかりの頃だったけれど、寡作の彼の短編は朝読書*4にうってつけでよく読み返していた。どこにも所属できていない寂しいわたしはまとまった寂寞さを過去の先人に求めていたし、梶井はそれをそのままに示してくれていた。同様に太宰も三者的視点で優雅の棘の根くらいは与えてくれたかな。ハイティーンの時の愛人とも言えるミシマは既にこの時いくらか読んでいて、わたしは夏子の無鉄砲さが好きだった。信条ともいえる一節が載った超長編は14歳の冬に京都で、夜に読んでいた覚えがある。この話はまたいつかします。ミシマは渇望をよく書いていると思っているけれど、確かにあの頃のわたしは何者かになるための野望とか渇望があったように思う。*5

何者でもない26歳は結局土地からの受容を得られることはなく働き、今度はその寂しさすら諦めて再び本を積んでは崩しているのよと14、5歳のわたしに伝えたらどんな顔をするでしょうね。それでもその習慣と矜持を愛しているのよ。

*1:お姉様とあの15分おきにしか来ない電車の話をする喜びを感じて欲しい、丸善は最近出来たんですわよ。

*2:私にしては数少ない友人だし、さらには学外だ!

*3:文学お姉さんになったつもりではいるのよ

*4:朝礼前に15分だけ区切って朝本を読まないといけなかった

*5:いまが何者か何かだとでもいうの?まだ何者でもないのにね